祖父から聞いた、戦争の話<前編>

祖父から聞いた、戦争の話<前編>

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ある日近くに住んでいた従兄に、新聞に求人が載っているから応募しないか、と誘われて試験を受けに行った祖父。面接があり、機関車は好きか聞かれ「好きであります」と答えただけ。結果はなんと、誘った従兄は採用されず、祖父だけが採用。

せっかく採用されたのだからと、昭和19年に現在のJRのそのまた前身である「運輸通信省」で鉄道員として働くことを決めました。

祖父はすぐに機関士の運転をさせてもらえると思っていました。しかし、現実はそう甘くはなく、機関車の掃除ばかり。時には先輩からの悪質ないたずらもあり、肉体的にも精神的にも辛い日々が続きます。

もう辞めてしまいたい、と思ったことが何度もあったそうですが、せっかく入ったのだからと我慢と努力を重ね、念願だった機関士になります。

ちょうどこの時、日本はポツダム宣言をし戦争が始まります。これまで客車だった機関車は、軍事物資を運ぶ役割を果たさなければならなくなりました。鉄道は日本軍の支配下に置かれ、ますます厳しい環境となります。

祖父にも、機関車を遅らせるわけにはいかないという大きな責任がのしかかります。

太平洋戦争が始まった

(私)どうやって戦争が始まったと知ったの?

(祖父)戦争が始まったのは昭和16年12月8日のこと。後輩の兄貴が(※)「スーパー5級」というラジオを組み立てていて譲ってもらったものでよく聞いていてね。青年学校に行く前に、日本が米兵に宣戦布告したというのをラジオで聞いて知ったよ。

日本が戦争に負けるわけがないから、何とも思わなかったけれどね。当時は「米兵が日本に勝ったなら死んだ魚が動き出す。枯れ木に花が咲く」という替え歌が流行ったんだよ。

当時の天皇陛下は『現人神(あらひとがみ)』といって、神様だった。昔は、各小学校の奉安殿というところに写真が保管してあってね。祭日には校長先生がそこから写真を持って来て『教育勅語』を読んでいたよ。

戦争中に地元に来たこともあって見たくてたまらなかったけれど、最敬礼をしていて見られなかった。それが当然だったけれど、今思えばおかしな時代だったなあと思う部分もあるねえ。今の人には思いもよらないようなことだろうねえ。

※スーパー5級:正しくは『5級スーパー』。真空管ラジオのこと。

(私)いざ戦争が始まってからはどんな生活だったの?

(祖父)昭和18年はそうでもなかったけれど、昭和19年に入ってからは苦しかったね。物は買えないし、米を作っても食べられない。

早く日本が勝って戦争が終わればなあ、とずっと思っていたよ。戦時中は、日本が優勢で絶対に負けない、と常に政府に思い込まされていてね。負けそうになったら、神風が吹いて敵は降参すると言われていたんだよ。

食生活はいつもひもじくてたまらなかった。鉄道員は(※)特別加配米がもらえたから、あれでずいぶん助かったけれどね。軍用列車を遅らせるわけにいかないから、常に気を張らなければいけなかったけれど。

時には空襲で線路がやられて、予定の乗務員が戻って来られないこともある。いつ次の乗務をさせられるか、わからない状態なんだよ。乗務を終えて駅に戻ってきたら木の札が置いてあって、6時間経過後には、すぐ次の乗務を命じられていたね。

「鹿児島」駅の一つ手前の「竜ヶ水」駅が攻撃されて不通になり、「重富」駅から動けなくなったことがあった。その時は北海道から常駐していた兵隊が乾燥にしんがたくさんあるから、とすすめてくれてね。それを蒸気機関車の火で炙って、炊いた加配米と一緒に食べたこともあったよ。

終戦直前には、その特別加配米も少なくてね。寮での食生活はとにかくひもじかった。米粒は探さないとないほどのものに、『ふすま』を入れて炊いて食べていたよ。それと寮長が海で水をくんでそれを沸かして、摘んだ庭の新芽を入れてね。とにかく食べるものがなかったんだ。

※昭和17年2月に「食料管理法」が制定され、国民は政府の指示する量の食糧しか買うことができなくなった。妊産婦、特殊な仕事に従事する者には、特別配給があった。

(私)徴兵検査は受けたの?

(祖父)俺が徴兵検査を受けたのは、昭和20年。20歳になったら受ける決まりでね。近所の人は既に志願で兵隊に行っていたよ。少年航空隊は15、16歳で志願していたね。兵隊に行けば生活費はかからず、給料がもらえるから。

兵隊の暮らしは裕福だったけれど、人々の暮らしは厳しかったね。兵隊たちは(※)「七つボタンは桜に錨」と歌って行進していたなあ。

検査には、甲種合格、第一予備役、第二予備役などがあって、甲種合格から順に召集令状で呼び出されていたよ。召集令状は、赤い紙に何月何日にどこに入隊と書かれていたな。

俺は機関車の乗務があったから、兵役は免除されて軍属配属。戦争中は、陸軍の一部の鉄道連隊が千葉から鹿児島にやってきてね。軍服を着た兵隊が列車を運転していたんだよ。

甲種合格の列車運転士は、鉄道連隊に一度入隊してそこからどこに行くか割り当てられてね。その鉄道連隊の兵隊に、運転の仕方を教えたこともあったな。兵隊は線路を知らないから、地元の機関助手を乗せていたんだ。

中には、ビルマやフィリピン、インドネシアなんかに行って鉄道員をしていた人もいたな。志免炭鉱に行って炭鉱を掘っていた者もいたし。

※昭和18年の軍歌。「若鷲の歌」の歌詞の一部。

(私)空襲にあったときのことを教えて

(祖父)昭和19年に鹿児島の空襲があったときは、(※)グラマが低空で飛んできて機銃掃射で撃たれたことがあったな。それとB29が油脂焼夷弾というのを落としてね。それが川に落ちたら、燃えながら流れるんだよ。火が燃え移っている人もたくさんいた。そのすべてを防空壕の中から見ていたよ。

空襲がおさまった後はひどい有様だった。他にも、1トン爆弾が落とされたこともあったね。その時は「鹿児島」駅構内にいた人はみんな倒れていたよ。「苦しい。助けてくれ。」と言われても何もできなかった。

亡くなった者はトラックに投げ込まれてどこかに運ばれていたし、生きているものは線路のバラス(砂利)の上に並べられていた。あの時の兵隊たちは本当にかわいそうだったね。

一度、日豊線からの到着列車と鹿児島本線の出発前列車が駅に停車しているときに、「鹿児島」駅が機銃掃射でやられたことがあった。あの時の「鹿児島」駅は負傷者でごったがえしていたよ。

その日の夜は「鹿児島」から「出水」までの乗務だったんだけど、列車が動かないから、コック回しと石炭をくべる片手ショベルを持って「西鹿児島」駅まで歩いて行って、乗務したよ。

空襲が始まって防空壕まで逃げている最中に、危うく大けがをしそうになったこともあったな。防空壕までが遠くてあまりにも機銃がひどいもんだから、「鹿児島」駅の裏の山の上にある多賀神社に一旦避難したんだ。偶然そこにいた兵隊と、階段で肩を並べた。あまりにも機銃がひどくて、目と耳をふさいで神社の階段に這っていたんだ。

おさまったら防空壕に行こうと身を潜めていたら、その時近くの川に1トン爆弾が落ちてね。その衝撃で大きな岩が階段に落ちて、俺の真横にいた兵隊の背中の上に落ちたんだ。あまりにもすごい衝撃で、兵隊も俺も階段から転げ落ちた程だよ。

俺は防空壕に行くためすぐに立ち上がろうとするんだけど、兵隊がズボンを握って離さなくてね。負傷して動けないから、代わりに鉄兜と剣を防空壕内の代用本部に届けてくれと言うんだ。俺は、そんなことより早く防空壕に行きたいからと困っていると、別の兵隊が来て俺を逃がしてくれた。

その日の夕方6時前に、その兵隊は亡くなったと聞いたよ。その日は8月で、まだ明るかったなあ。

日豊線の帰りの乗務で、霧島神宮の近くに来たときに空襲機でやられかけたこともあるよ。あそこは線路が下り坂だったから、急いで隧道(トンネル)に突っ込んだんだ。後で見たら、霧島神宮が機銃でやられてひどい有様でね。20/1000(20‰)下り勾配で加減弁満開で突っ込んだから間に合った。あと30秒遅かったら助かってなかったよ。

しかし、今思えばあの早さで突っ込んでよく脱線しなかったなと思うね。攻撃されたのは、アメリカ軍が停車中の回送列車を軍用列車だと勘違いしたからで、偶然通りかかった俺の列車もやられたらしい。後で見たら直接あたったところは穴が開いていたよ。あのときの薬莢をいくつか持って帰ったんだけど、どこにいったかなあ。

※グラマン:アメリカの航空機メーカー。大戦中、日本ではグラマンは米国戦闘機・憎き敵機としての代名詞として呼ばれていた。

後編へ続きます。

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