祖父から聞いた、戦争の話<後編>

祖父から聞いた、戦争の話<後編>

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(私)戦争が終わったと知ったのはどうやって?

(祖父)8月15日は公休で串木野に帰省中でね。飛行機がまく大量のビラを見て戦争が終わったと知ったんだよ。わかった途端、急いで「串木野」駅に行った。早く「鹿児島」駅に行かないと、と思ってね。

だけど列車の時間はめちゃくちゃで、時間通りになんて来ない。どうしようかと困っていたら、単行機関車(蒸気機関車の先頭部分)がちょうど来てね。その運転士は「戦争が終わったから、列車を引かずに単行で行けと言われた」と言うんだ。俺は「鹿児島」駅まで行きたかったから事情を話して、特別にそこに乗って「鹿児島」駅まで向かったよ。

その日は「鹿児島」駅を6時23分に出て「川内」駅までの乗務だったんだけれど、何もかも混乱していてね。「鹿児島」駅を夜の9時半発の102列車という「門司港」駅まで来る夜行列車を運転して、あとは全て取り消すと指令から連絡があった。

みんな逃げていて誰もいないから、予定とは違うけれど乗務してくれと言われて。結局誰も来なかったから、その列車に乗務することになって待機させられたよ。

その日の晩御飯はおにぎりと漬物だったな。それを食べてから、乗務したよ。やってきた列車を見たら発電機が故障して壊れていて、別の客車の洗面所の鏡を持ってきて中を開けて映しながら運転したなあ。それが終戦の夜のことだね。

(私)戦争後の様子はどうだったの?

(祖父)戦争が終わって一週間ほどは『無政府状態』といって警察が機能しなくなったんだ。何をしようが誰もとがめる者はいない。

たくさんの軍用列車が駅に停車していたから、みんな色んなものを持って行っていたよ。貨車には靴下、洋服、皮の長靴、軍服なんかが入っていたから、中は常に人でごった返していた。俺たちは食べ物にしか興味がなかったけれど、大人は闇市で売って儲けた者も多かったという話だね。

その時は、金平糖の入った乾パンや、玄米を一升瓶でついて白米にしたものなんかを食べていたよ。相変わらずひもじい生活は続いていたね。

終戦後は炭鉱の景気がとてもよかった。戦争で油がなくなって、代わりに炭鉱を使っていたから。同僚の中にも、炭鉱の仕事に転職した者も多かったよ。生活費は全部面倒をみてくれるし、給料もすごくよかったからね。俺も行こうかなと思ったけれど、行かなくて正解だったな。

戦時中は採用試験に受かりさえすれば機関士になれていたんだけれど、戦後は再教育を受けることに。

3か月後に機関士科に行く予定だったんだけど、終戦後は規則が変わってね。戦後は朝鮮鉄道は内地の鉄道と一緒になったし、満鉄からは経歴を半分にして帰ってきた者もいて、鉄道職員が60万人もいたんだよ。おかげで早く機関士科に行きたかったんだけど、入れてもらえなくてね。機関士も機関助手も動力車になった時に給料が同じになったから、それはよかったけどね。

今と昔の両方を生きて思うことは?

「今ある一番すごいものは何だと思う?」との質問に、「俺たちは時速80キロで走っていたのに、今の列車は時速300キロで走るなんて信じられない時代になった」と。

祖父は、社内でも成績優秀だったそうで新幹線が開業時に運転士に誘われたそうです。しかし、左耳が悪くそれをかばいながら運転していたため、その悪化を恐れて断ったのだとか。

当たり前のように新幹線の走っている私たちにとって、戦争は遠い過去のことのように思えます。時を経るにつれて、戦争体験者がそれを語ることは少なくなってきています。その上で、戦時中の話を祖父から聞いたことは貴重な経験になりました。

いつかこの世から戦争がなくなり、平和な世界になりますように。そのために戦争を知ることは大切なことです。どうかこれが、読んでいただいた方の戦争と向き合う機会になりますように。

最後になりますが、情報の正誤性についてお詫び申し上げます。可能な限り調べたものの過去のことであり、正しい情報なのかわからない部分があります。祖父にとってはおよそ70年前の出来事で、思い違いや勘違いが多くあると思います。

確実に正しい情報だけを掲載すると、大幅に削除してしまうことになるため、このまま掲載させて頂くことにしました。どうかご了承いただけますよう、お願い申し上げます。

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